いよいよ汎用アナログコンピュータのお話に進みたいと思います。

昭和時代

このブログを書きはじめた動機はアナログコンピュータのプログラミングの図がブロックのシンボルを線でつないだ絵だからです。(つまりたいていのアナログコンピュータの資料を見ても中身がさっぱりわかりません)
でも計算の論理順番を示しているシンボルのブロック図は便利です。
しかし便利であろうともあのシンボルのブロックの中はどういう原理なのかを知りたいじゃないですか。
それで今までは「なんとか回路」なんていう中身の原理を書いてきました。
このあたりでそれは卒業して普通の汎用アナログコンピュータのブロック図に替えようと思います。
 そのまえにメタな話から始めます。まず最初に今日は昭和30年代のアナログコンピュータの種類体系のお話にします。
昭和30年代の日本は高度成長期でした。
アジア初のオリンプックを東京で開催することが決まり、私の田舎である代々木の郷も東京都知事・東龍太郎さんのひと声ですべての家のトイレは「くみ取り式」から「水洗トイレ」に改造させられました。
渋谷区代々木初台の水道工事屋さん「富士管工」さんも大忙し。
羽振りが良くなった富士管工さんの社長さんから「うちで働け。給料はずむぞ」と誘われたことを憶えています。
オリンピックが終わったら都内のトイレ改修工事はひと段落ついてしまい、どうせ下水道工事の仕事が激減するだろうと思ったのでお断りしました。
あのときはたまたま東京都がオリンピック開催に向けて補助金を出して一斉にトイレの水洗化をしましたから下水の工事仕事は降ってわいた好景気だっただけです。。
テレビもカラー放送が増えて首都高速道路が急ピッチで建設されていました。
総武線や高崎線の蒸気機関車が次々と姿を消していました。
路面電車やトロリーバスはまだ健在でしたが、自動車が急激に増えていて路面電車やトロリーバスは動きにくそうでした。
根強い人気漫画に「三丁目の夕日」という作品があります。
私は終戦後すぐの生まれですから、中学を出て社会に出たころの東京の街の風景を描いた作品を読むととても懐かしく感じます。
デジタルコンピュータはまだ黎明期(れいめいき=夜明け前)でした。
でもまだまだ半導体の寿命が悪くて電磁リレー式や東京大学の大学院生だった後藤英一さんが発明したパラメトロン素子を使ったものを使ったデジタルコンピュータを一生懸命に開発していたころでした。
平均故障間隔時間のことをMTBF(Mean Trouble Between Failureの頭文字4ケ)と言います。 これが短いと頻繁に壊れてしまうという意味ですが、当時の半導体はすぐに壊れてしまうシロモノでした。
なので半導体の代わりに使ったのがパラメトロン素子でした。
半導体がダメでも真空管を使ったデジタルコンピュータを私は観た記憶がありません。
電磁リレーとEIコア(以前に「昔のROM(リードオンリィメモリー)またの名をパーマネントメモリー」の投稿で図を用いて説明したものです)の時代の次はパラメトロン素子でした。
半導体も個別半導体とかディスクリートな半導体と呼ばれていた部品を使ったものが多かったと思います。
(昭和30年代も後半になるとICがどんどん使われ始めてきました)
電磁リレーのコンピュータは現在、富士通の沼津工場に隣接した池田記念室で動態保存されています。(FACOM128B)
保守エンジニア3名が歴史上貴重な電磁リレーコンピュータを現在も動くように守っているそうです。
https://www.fujitsu.com/jp/about/plus/museum/relay/outline/
私が先輩に連れられて日本電信電話公社武蔵野通信研究所に納められていたパラメトロン素子のコンピュータを見たときに、その場には当時同じようにパラメトロン素子でコンピュータ開発を行っていた日本光電製作所の主任技術者のかたもいらっしゃいました。
そのころはすでに東北大学のフェローになっていらっしゃいました。
アーキテクチャや機械語命令も習いました。
パラメトロン素子の特性やすぐれた発想も開発者直々に詳しく教えていただきました。
せっかく教えていただいた貴重な話ですので、もっと先のほうで細かく書きます。
2015年ごろに日本光電製作所のホームページを見たのですが当時はあの日本のコンピュータ開発史に燦然と輝く機械の話が載っていませんでした。
当時の日本のコンピュータの最先端を担っていた富士通のパラメトロン素子機(これは現在、東京理科大学の近代技術資料館で保存されています)と双璧をなしていた日本光電製作所の最先端コンピュータ開発の話が肝心の日本光電製作所の歴史から消えてしまったのかと驚きました。
私は早速、元富士通の技術者であることを明かして日本光電製作所へメールを送りました。
するとすぐに取締役のかたからお返事をいただきました。
そして社史には掲載されているということで社史のコピーを頂きました。
あのころの日本の最先端技術を富士通と競っていたお話が歴史の中に埋もれてしまうのはあまりにももったいないと思ったからです。
パラメトロン素子のお話は書き始めるとかなり長くなるので、デジタルコンピュータ開発史に入ってから書きますね。
とりあえず東京理科大学近代科学資料館のことはこちらでご覧ください。
https://www.tus.ac.jp/info/setubi/museum/event_data/2018parametron/2018parametron.html
デジタルコンピュータに話が飛んでしまいましたが、昭和30年代はまだまだアナログコンピュータ全盛でした。
あのころのアナログコンピュータの体系図を描きましたのでご覧ください。
いちばん下の「繰り返し型」と「低速型」がいわゆる汎用アナログコンピュータです。
それ以外は用途が特定されていました。
 今回の投稿はアナログコンピュータとデジタルコンピュータの話が混在してしまいました。
あのころがアナログコンピュータからデジタルコンピュータへ主力が移っていく端境期(はざかいき)だったように思います。
昭和39年の東京オリンピックは日本アイ・ビー・エムの汎用機が大活躍しました。
次に日本で開催されたオリンピックは札幌オリンピックでした。
そのときにはプレスサービス(世界中から集まった報道記者が各競技の状況をリアルタイムで調べることができるサービスのシステム)で富士通の汎用機が大活躍しました。
ページング技術や、仮想記憶技術やチャネル装置の進化が急激に加速されたころでした。
そういう変化の激しい時期にも生き残っていたアナログコンピュータの話をもうすこし続けますね。
次回からは「繰り返し型」「低速型」の違いも含めて汎用アナログコンピュータの歴史をお話いたします。

昭和時代

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